国内26兆円の市場で700万人の雇用を抱える医療・ヘルスケア業界では、ブロックチェーン技術を応用した産業変革の動きが加速しています。予防医療の実現に向けた業界の課題とデータに対する考え方、海外・国内の最新事例を併せて解説します!
なお、ブロックチェーンビジネスの考え方、全体像の概観を学びたい方は、次の記事も併せてご覧ください。
→ 参考記事:『ブロックチェーンのビジネスモデル・活用事例〜非金融など応用領域も解説〜』
ブロックチェーンは医療・ヘルスケア産業を変えうるか?
2030年に向けて変革が求められる医療・ヘルスケア産業と予防医療
2020年現在、医療・ヘルスケア産業は、クラウド、AI、ブロックチェーン、IoTなど、およそあらゆる先端情報技術による構造変革が求められています。
構造変革が求められている背景には、マーケットの拡大(つまりは医療や介護を必要としている人が増えている)、それに伴う労働力の集中、そして医療崩壊の可能性という、3つの社会状況の変化があります。
第一に、医療・ヘルスケア産業は、年々、急拡大を続けており、2020年時点で国内26兆円、2030年には37兆円の市場規模に達するとみられています。
この背景には、引き続く社会の高齢化に加えて、予防や健康管理、生活支援サービスの充実、医療・介護技術の進化があります。
出典:事業構想
第二に、マーケットの拡大は、医療・ヘルスケア業界に携わる人口の増加ももたらすでしょう。
総務省の「労働力調査」によると、2012年には706万人だった医療系の労働人口は、2030年には944万人にまで増え、あらゆる産業の中で最も労働力を必要とする産業になると言われています。
出典:事業構想(単位は万人)
そして、第三に、こうした市場成長の帰結は、おそらく日本経済の活性化ではなく、医療崩壊です。
少子高齢化が進む中、健康寿命が伸びないままに平均余命が伸びていくと、税金の供給と社会保障費としての医療費のバランスが崩れ、社会保障システムに支障をきたします。
また、医療現場、介護現場はますます厳しさを増し、「割に合わない仕事」が増えていくことで、労働者の生活水準のみならず、患者や被介護者の得られるサービスレベルが低下することによる国民全体のQOLの低減も招きます。
さらに、最悪の事態になれば、例えば2020年に発生したCovid-19(新型コロナウィルス)が引き起こした病院の業務混乱、崩壊のように、医療サービスの需要者と供給者のバランスと、それを支えるシステム全般がうまく機能しなくなることで、「命の選別」をしなくてはならなくなる事態も、将来的には十分にあり得るでしょう。
こうした中、切に求められているのが「予防医療」です。
予防医療は公衆衛生の考え方の一つで、病気になってから、あるいは要介護になってから対応するのではなく、病気そのものを未然に防ぐことで、健康寿命を伸ばし、医療崩壊を防ごうという考え方です。
2030年、さらにはその先の未来に向けて、日本の医療・ヘルスケアのあり方は、この予防医療という考え方にシフトしていかなければなりません。
そして、予防医療が真価を発揮するためには、ヘルスケアデータの利活用と、そのためのシステム変革が必要になってきます。
ブロックチェーンは、まさにこの点において、医療・ヘルスケア業界の変革をサポートする有望技術として、注目を集めています。
そもそもブロックチェーンとは何か?
ブロックチェーンは、2008年にサトシ・ナカモトと呼ばれる謎の人物によって提唱された「ビットコイン」(暗号資産システム)の中核技術として誕生しました。
ブロックチェーンの定義には様々なものがありますが、ここでは、「取引データを適切に記録するための形式やルール。また、保存されたデータの集積(≒データベース)」として理解していただくと良いでしょう。
一般に、取引データを集積・保管し、必要に応じて取り出せるようなシステムのことを一般に「データベース」と言いますが、ブロックチェーンはデータベースの一種であり、その中でも特に、データ管理手法に関する新しい形式やルールをもった技術です。
「分散型台帳」とも訳されるブロックチェーンは、中央管理を前提としている従来のデータベースとは異なり、常に同期されており中央を介在せずデータが共有できるので参加者の立場がフラット(=非中央集権、分散型)という特徴を備えています。
従来のデータベースの特徴
- ① 各主体がバラバラな構造のDBを持つ
- ② それぞれのDBは独立して存在する
- ③ 相互のデータを参照するには新規開発が必要
ブロックチェーンの特徴
- ①’ 各主体が共通の構造のデータを参照する
- ②’ それぞれのストレージは物理的に独立だが、Peer to Peerネットワークを介して同期されている
- ③’ 共通のデータを持つので、相互のデータを参照するのに新規開発は不要
こうしたブロックチェーンの「非中央集権性」の恩恵としては、
- 中央を介さないので中間手数料がない、または安い
- フラットな関係でデータの共有が行えるので競合他社同士でもデータを融通できる
- 改竄や喪失に対して耐性がある
ということが挙げられます。
まさにこの「非中央集権、分散型」という特徴こそ、ブロックチェーンが様々な領域で注目・活用されている理由だと言えるでしょう。
ブロックチェーンが医療・ヘルスケア業界の変革に向いている理由
不動産、物流など、様々な業界で注目されているブロックチェーンですが、医療・ヘルスケア業界の変革に向いている理由はなんでしょうか?
この問いに対する考え方は色々あり得るものの、答えの一つは、「医療・ヘルスケアが、ブロックチェーンがもつデータの対改竄性と、非中央集権というコンセプトを活かせる領域であること」でしょう。
まず、当然のことながら、医療・ヘルスケアで扱う情報は、個人情報の中でも特に秘匿性の高い情報です。
この情報を取り扱う上では、データベースやシステムのセキュリティ、とりわけデータの改竄に耐え得る能力が重要になります。
ブロックチェーンは、暗号資産(仮想通貨)で用いられる「パブリックチェーン(不特定多数の参加が認められる)」と、「プライベートチェーン(管理者のもと特定メンバーの参加が認められる)」の2種類に大別されますが、このうちプライベートチェーンでは、特にセキュリティ要件を高く担保することが可能です。
また、医療・ヘルスケア業界は、次のような性質をもった産業であると言えます。
- 診療情報や遺伝子情報といったもっともセンシティブなデータのひとつを扱うため、情報の非対称性が大きい
- 動く金額が大きいため、データ改竄に関する経済的な動機が大きくなる
- 患者側にデータ自決権がない
こうした性質をもった業界でデータドリブンな変革を行なっていくためには、中央管理者の存在が障害になりうると考えられます。
したがって、ブロックチェーンが非中央集権的に振舞うことができるシステムであることも、医療・ヘルスケア業界との相性を良くしていると言えるでしょう。
ブロックチェーンの現状と課題
ただし、気をつけなければならないことは、ブロックチェーンが「万能の救世主」というわけではないことです。
「ブロックチェーンであればなんでもできる」といった誤解をよく見かけますが、現時点の実例で言えば、実証研究的なプロジェクトに終始しているものも多く、実際に変革を行う上では数多くの障害があります。
とりわけ、スケーラビリティの問題は、医療・ヘルスケア業界でブロックチェーンが活用されるための大きな課題となるでしょう。
スケーラビリティとは、「トランザクションの処理量の拡張性」、つまり、どれだけ多くの取引記録を同時に処理できるかの限界値のことを指します。
ブロックチェーンは、その仕組み上、従来のデータベースよりもスケーラビリティが低くならざるを得ないという課題を抱えています。
InterSystemsのブログによると、共通ストレージインテンシブ医療データに必要な一般的なデータストレージは、次の通りです。
- X線 = 30 MB
- マンモグラフィー = 120 MB
- 3D MRI = 150 MB
- 3D CT スキャン = 1 GB
- デジタルパソロジ―画像= 350 MB (平均)
- 100 GB 10億回の読み込み – 一般的な人のゲノム
- 各ゲノムの異なるファイルに対し 1 GB
このように、医療・ヘルスケア業界では、他の産業よりもはるかに大きなデータの塊を保存・処理する必要があります。
この点で、ブロックチェーンの現状では、データベースとしての機能を十分に発揮することは期待できないでしょう。
なお、このスケーラビリティの問題に対しては、近年、金融領域におけるマイクロペイメントで「ライトニングネットワーク」と呼ばれる技術を活用することで、トランザクションの処理速度を向上させることに成功しています。
ただし、これはあくまで取引処理速度の向上であり、メディカルデータのような大きさのデータを保存する点について、すべての課題を解消しているわけではありません。
ブロックチェーンの活用を考える上では、こうした課題の面にも目を向ける必要があります。
「医療×ブロックチェーン」が解決しうる課題
「医療×ブロックチェーン」が解決しうる課題A:「情報の非対称性の克服」
医療・ヘルスケア業界にブロックチェーンを導入することにより解決しうる課題の1つ目は、「医療やそれに付随する情報の非対称性を克服すること」です。
上でも触れたように、医療・ヘルスケア業界では、診療情報や遺伝子情報といったもっともセンシティブなデータのひとつを扱うため、情報の非対称性が大きい点に特徴があります。
情報の非対称性が発生しやすく、利害が対立しやすい立場の違いは、例えば次のようなものです。
- より正確な診断を下したい ↔︎ まともな医者か知りたい(医者と患者)
- 転売等を目的とした不正な薬物購入を防ぎたい ↔︎ 偽造薬は使いたくない(処方薬の売手と買手)
- 保険金請求に関する不正の抑止 ↔︎ 保険会社の優越的地位の濫用の監視
- 医学論文の実験結果に不正がないことを証明・確認したい ↔︎ よりインパクトの大きな論文を出したい
こうしたプレイヤー間の情報非対称性に起因した医療・ヘルスケア業界の課題に対して、ブロックチェーンは、オープンかつ真正性の高い(データの改竄等がない)データ基盤において、第三者を排除した分散型の管理手法を提供することで、課題解決に寄与するとみられています。
「医療×ブロックチェーン」が解決しうる課題B:「自決権」「データポータビリティ」
医療・ヘルスケア業界にブロックチェーンを導入することにより解決しうる課題の2つ目は、「医療データに関する患者の自決権やデータポータビリティを確保すること」です。
データの自決権とは、患者が自身に関する医療データを所有し、自由に移転・処分できるような権利のことで、データポータビリティは、患者が医療データを他の医療機関やヘルスケアサービス等でも自由に再利用できること、すなわち持ち運び可能であることを指します。
これまで、患者は診療情報などの医療データを、自分自身に関する情報であるにも関わらず、自由に持ち運び、再利用したり処分したりすることが困難でした。
データの自決権やデータポータビリティが確保されれば、患者は例えば次のようなデータ活用を行うことができます。
- セカンドオピニオンのために診療情報を個人に帰属させる
- 遺伝子情報や診断情報を自らの判断で売買できる(トークンエコノミー)
これらの権利が成り立つためには、データを取り扱うシステムが「非中央集権的」で、かつ安全なものでなくてはなりません。
したがって、ブロックチェーンの活用が求められているのです。
「医療×ブロックチェーン」が解決しうる課題C:「非効率な転機業務の合理化」
医療・ヘルスケア業界にブロックチェーンを導入することにより解決しうる課題の3つ目は、「非効率な転機業務を合理化すること」です。
医療業界には大小合わせて18万軒程の医療機関があり(平成30年度、歯科医院含む)、その多くが個別の事業者によって経営されています。
また、関連機関についても、6万軒弱の薬局をはじめ、さらに数多くの法人が存在しています。
ところが、そうした医療機関のそれぞれが似たような業務プロセスに基づいた、似たような医療データを取り扱うにもかかわらず、それらのデータは個別に入手され、異なるデータベースに保管されます。
加えて、各医療機関のデータベースは相互に統合されることはなく、医療機関間でのデータ移転もほとんど行われません。
そのため、例えばクリニックと薬局のように、同じ患者に関するデータを重複して取り扱う場合には、本質的には不要な、非効率な転機業務が行われることになります。
こうした課題に対して、ブロックチェーンを活用してデータベースの統合、連結をはかっていくことで、例えば次のように業務の合理化をはかることができます。
- 医者と薬局での似たような問診票の省略
- 保険金請求に関する似たような伝票の突合業務・転機業務の合理化
2030年に向けて、労働力の不足が深刻さを増していく医療・ヘルスケア業界において、ブロックチェーンによる業務の効率化は今後注目を集めていくことでしょう。
海外動向
事例①:エストニア
これまで述べてきた医療へのブロックチェーン活用方法を国家レベルで行なっている事例として有名なのが、エストニアの電子政府です。
エストニアでは、プライベート型のブロックチェーン技術を応用して電子カルテを国全体で共有することで、「データポータビリティの確保」「転機業務の合理化」という課題を克服しました。
具体的には、次のような価値が実現されているようです。
- 電子カルテの利用、処方せんの受付、保険請求をすべてオンライン化
- 医療機関の待ち時間を804年分短縮
- 自身の医療情報を国内のあらゆるところから確認できる
- 医療情報のアクセス記録を透明化
エストニアの事例から、医療業界の克服すべき課題は、国家レベルとは言わずとも、業界内での提携・統合を前提としたブロックチェーンの活用によって、初めてその効果を発揮しうるものと言えるかもしれません。
事例②:MedRec
データポータビリティを実現する他の事例に、MITメディアラボが開発したMedRecが挙げられます。
MedRecはイーサリアムを利用したプライベートチェーンで、過去の医療機関の同意や同意に必要な手続きを経ることなく、医療情報の再利用を可能にするシステムです。
MedRecでは、コンセンサスアルゴリズム(ネットワーク内での合意形成のルール)としてPoA(Proof of Authority)が用いられており、医療機関が認証し、承認された機関のみが医療履歴へのアクセスが可能となります。
これにより、前述した「非中央集権性」の性格を維持しつつ、秘匿性の高い医療情報に対するセキュリティも同時に担保することを狙っています。
MedRecの事例でも、エストニアの事例と同じように、複数の医療機関が参加するネットワーク基盤を形成することで、医療データをうまく有効活用するだけでなく、データ移転のミスなどのヒューマンエラーによる医療リスクを減らしています。
事例③:The MediLedger Project
医療・ヘルスケアの関連業界でブロックチェーンを活用した事例の一つに、アメリカの製薬業界で発足したThe MediLedger Projectがあります。
2020年現在、FDA(Food and Drug Administration、アメリカ食品医薬品局)の発令したDSCSA(医薬品サプライチェーンセキュリティ法)という法律により、アメリカの製薬企業は、医薬品に個別の番号を付けてサプライチェーンを管理することが求められており、2023年には、サプライチェーンの薬を追跡できる“電子的な追跡システム”に参加しなければなりません。
このサプライチェーンにおけるトレーサビリティの問題を解決する手段として、ブロックチェーンが注目を集めており、実際にプロジェクト化されたのがThe MediLedger Projectです。
The MediLedger Projectは、米Chronicled(クロニクルド)社が、ジェネンテク、ファイザー、ギリアド・サイエンシズといった大手製薬会社や医薬品サプライチェーン各社と共同で立ち上げた実験プロジェクトで、コンソーシアム型のブロックチェーンシステムを使うことで、いつ誰がどの薬に触れたかを追跡することができます。
さらに、このプロジェクトでは、医薬品の取引に関するプロトコルを開発することで、情報の非対称性を解消し、業界全体の効率化を狙っています。
すなわち、従来は個別交渉を行なっていた医薬品の価格設定や契約について情報を共有し、標準化をはかろうという試みです。
国内動向
事例①:サスメド
日本国内では、海外事例のような業界全体を巻き込んだ大きな動きはまだ見られず、各社、実証実験の段階に留まっています。
その一方で、ブロックチェーンを活用した医療変革を起こそうと企てるスタートアップ企業が多方面で活躍を始めています。
その代表的な医療系スタートアップの一つが、医師でもある上野太郎氏が代表を務めるサスメド社です。
サスメドは、不眠症治療用アプリやデジタル医療基盤を開発する他、国立がん研究センターと乳がん患者向けアプリの共同研究を行うなど医療のデジタル化を推進しています。
そして、そうした研究手法の一つとして、サスメドでは「ブロックチェーン技術を用いた臨床研究モニタリングの実証」が行なわれています。
ブロックチェーンの技術を研究へと応用する背景には、前述した、「データ改竄に関する経済的な動機の大きさ」があります。
市場規模、社会に与えるインパクトが共に大きい医療・ヘルスケア業界では、基礎研究の成果が社会へと実装される過程、あるいはその先にある新市場で多額の資本が動くことになります。
したがって、基礎研究の裏付けとなるデータが改竄されるリスクが大きくなり、このリスクに対応する必要が生じてきます。
実際に、2018年4月には、厚生労働省はが施行した臨床研究法によって、「臨床試験データのモニタリング実施」が義務づけられています。
その結果、各研究主体は、この法令を遵守するために、データの改竄や誤りの有無を確認するためのコストを払わねばならず、臨床試験や治験の投資効率が悪くなっていると言われています。
(参照:『医療×ブロックチェーンの可能性──サスメド・経産省が「課題と規制」を議論【btokyo members】』)
こうした改竄リスクおよびリスクヘッジにかかる確認コストを小さくするための手法として、データの対改竄性が高いという特徴をもつブロックチェーン技術が応用されているのです。
事例②:健康銀行
医療系スタートアップの他の事例として挙げられるのが、Arteryex社による医療情報プラットフォームです。
Arteryexは2018年に田辺三菱製薬アクセラレーターでブロックチェーンを活用した医療情報プラットフォーム「健康銀行」を提案し、独自のArteryex Chainを活用して医療情報プラットフォーム事業の展開を開始しました。
同社ホームページによると、健康銀行は、AIやブロックチェーン等の先端技術を取り入れた、患者を中心とした「次世代医療情報プラットフォーム」であり、主に次のような特徴を持っています。
- 患者が主体となり、自身の健康状態、診断結果を一元管理できる
- 患者からオプトインが取得できているデータのみ活用する
- 患者へデータ活用の価値を還元する
これは、医療業界の課題である「情報の非対称性」や「データの自決権・データポータビリティ」の問題を解消するための動きと言えます。
同社は、こうしたソリューションにブロックチェーンを利用するメリットとして、次の3点を挙げています。
- データ分散管理によるセキュアなシステムの構築
- 削除できない・されないデータ閲覧履歴の構築
- 患者様がデータを管理し、患者本人からデータ開示を許可できる
この事例は、ブロックチェーンがもつ「データの対改竄性」「非中央集権性」がセキュアな情報基盤をつくりだし、それが医療・ヘルスケア業界の革新を支えていくという、産業全体の今後の大きな潮流を予感させるものだと言えるでしょう。